昭和40年06月15日 朝の御理解



 お道の信心による真実の助かり方(後生のおかげ、現実のおかげ)(喉音)後生頼みと言う、信心がある、現実の助かりを願う、信心が、ある。お道のおぉ信心が、現実に助かっても行かなければならないし、後生においても、また、助からなければならない、あの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけれる、しかも、現実私も助かって行かなければならない、そういう、信心と私は思うんですね。
 教祖はそういう信心を、ご自身が頂かれたという、そしてそういう信心を、受けられた、おかげ、ね、「此の方がおかげを受けた事を話しにして残しておく」とこうおっしゃる、教祖の神様が教えられる事は、そういうような、ことを教えておられる、ならそういうような事と言うと、ならどういうような事かと言うと、まあ結論を先に言うなら、とにかく、天地の御恩徳を悟り、ね。
 天地の大恩を知って、ね、その天地の御恩徳に対する神恩報謝の生活をさせて頂くと言う事、ね、それをもう少し言うなら天地の、親神様のお心を悟らしてもろうて、天地の親神様のお心にかのうた、天地のお心にかのうた生活をさして頂くと言う事、そういう事に私は尽きると思うのですね。天地の大恩を悟らしてもらい、その天地の大恩に対して、神恩報謝の真を尽くしていく。
 天地の大恩を知って天地の大恩をに応え奉っていく生活、ね、それをまた言う言葉で言うと、天地の道理を分からしてもらい、天地の道理に即応した信心にならして頂くということなのである。昨夜もう皆さん帰られてから11時頃だった、明渡先生が私の部屋にやってきてから、「先生、僕はいよいよ分からないことがある」「こういうような場合、こういうような事があったんですが。
 どう言う様なもんでしょうか?」と言った様な、質問をされるんですね。もうあちらの教会は、非常にその、おばあさんの時代に、おかげを受けられたらしいですね。もう先生達御兄弟の、あれはもう三代になるんですかね、三代目になられるです、40何年間の、経歴を持った教会、ならそこの教会教会にその伝統というものがある、ね、玉水の例えば湯川先生のとこあたり、同じ大阪でも非常に商売人が助かるんですねぇ、
 もうなん、なんて言うんですか、実にその現世利益ですねぇ、商売人が助かる。例えて言うならば、「神様は、神様がご主人で、そこの主人が番頭だ」と、「そこの奥さんは女中さんだ」と、というような、頂き方なんですね、ほんで、もういちいちそのご主人、ご主人の気に入るような、商売さえして行きゃあ、商売が繁盛すると言った様な、その道理を説かれるらしいですねで、商売人が非常に助かった。、
すとその、明渡先生とこなんかはですね。もう癌専門と言うほど、その癌が助かるっち言う、ね、子宮癌とか、胃癌とかと言うでしょ病気で、もうそれはもう熱烈な、御祈念をなさるそうですね、先生達、い、あちらの兄さんがみえられた時にも「はぁ変わっちゃるなぁ、御祈念の仕方から違うなぁ」と思いよったら、明渡先生なんかもやっぱそうなんです。それこそもう、例えばその、そんなら病人なら病人の助かり。
 お願いを求めてくると、それこそまあ水をかぶったり様々なその、修行をされてそのことを願われる、御祈念をされる例えばあちらの、おばあさんの場合なんかは、どんな病人が来てもね、お神酒を、ぶぇと吹っかけられる、たちどころに病人が助かるっと言うようなその、奇跡が現れたっちいうんです。有り難いですねぇ。それで私言うたんですけれどもね、そのそれはねそのお神酒そのものにも、なるほど功徳がある。
 けれどもお神酒を吹くおばあさんのですね、その、信念が、病気を救う、助けていく、癒していく訳なのですねぇ。私はまぁあちらに居られる時にさっ3人かね、癌のまあ人を、お取次ぎさしてもろうた、2人は殺した1人は助かった、もう本当にそれがどう、どんなに考えても分からん、もうその「助かるもんだ」とこう思うておった、助からなければならんのだ、ね。
 こういう熱烈な祈りをそっ、捧げて祈りをい以って神様に通うのである、で神様が聞いて下さらんはずがないという、確信を持ってそのお取次ぎをなさる。それでその私が明渡先生に、あんたが一番初めにここにみえた時に、「椛目の信心 はふうたらぬくい信心だ」と、だから結局その、ふうたらぬくい信心を、今度こちらへ来たら身に付けていくんだと、ならふうたらぬくい信心とはどういうようなことか?と。
 私は御祈念がもう朝と晩しかしない、それもその熱烈な、もうそれこそもう体をゆさぶってですね、もう神様聞いて下さらなければです、もうゴシゴシやってその私は御祈念をなさる、方達があるんですねぇ。四国あたりなんかの人達なんかもう、一生懸命な。熱烈な、「神様が言う事聞い下さにゃここの座は動きません」っちいうようなその、勢いなんですね。私はだんだんその、本当にあの、御祈念力も大事であり。
 その御祈念力によって例えば、そうして奇跡的に、医者の見放した病人なんか、どんどん助かっていくという事は有り難い、ね。又はその、一つの、お、理を、さっ、分からしてもろうて、ね。商売がどんどん繁盛していくという事も有り難い、そういうおかげも頂かなければならん、けれども、私はその「真実の助かり」というのは、そういうものだけではない、と私は思うと、ね、商売が繁盛しただけで、病気が治っただけで、人間が 幸せなるという事ではないということ、ね。
やはり、後生も大事だ、あの世に持っていけるものが大事なのである、ただ病気が治ったからというて、あの世に持っていけれる、お徳が受けられるという事はないということ、この世で億万長者になったからというて、その億万の、財産をあの世に持っていけるという事もない、ね。どこまでも私は、天地の大恩を悟らしてもらい、天地の大恩、に、応え奉るところの神恩報謝の生活ができるような信心。
 その商売が不振なら商売が不振、病気なら、医者に見放されたような病気なら病気その病気を通してです、天地の大恩を悟っていく事だと、知っていく事だと、まあこう言うと簡単なことようであるけれどもなかなかそれが難しい、ね。甘木の初代なんかはそこんところを、もう本当に説きぬかれた、天地の大恩を説き、説きぬかれた、一切が天地の、親神様の、御恩徳によって、生かされて生きておるのであるから、そこんところを、天地の大恩を、説かれたわけなんですねぇ。
 私共が、椛目に御神縁を頂いてから、皆さん信心の稽古をなさる、本当にそれは熱烈な、御祈念の力によって、ね、神様と交流する一つの手段は、として御祈念もしなければならない、天地の一つの道理を悟らしてもろうて、ね、一切が神様の御物と言う様な立場に、ところに立脚して、御商売でもさして頂くなら、なるほどおかげが受けられるだろうと、ね、けどももっと私がその椛目で私が唱えておると言うか、ね、
 それはどうでも私は天地の親神様の心を知るということ、親の思いを知るということ、そしてその親の思いに応えれる信心をさして頂くということ。「親の思いを子知らず、神の思いを人知らず」と、教祖が仰るようにその、神の思いを私共が分からしてもらう、その癌なら癌といったような、商売が不振なら不振というような、そういうところからです、神様の思いを分からしてもらう、ね。
そこで私共がいっつも言っておりますように、どのような事の中からでも、神愛を悟るとこう、神愛を知るのであるのだと、神の愛を悟るのだと、そしてその癌も、商売不振も、ね、一切が神愛の現れであるということが分かる、親の思いの、表現であることが分かる、そこに例えば、癌を患うておる事の中にでも、商売不振の事の中にでも、お礼が申し上げれるところの信心が、生まれてくる、ね。
 このどのような事の中にでも、お礼の申し上げれるような信心、そういう信心こそです、私はあの世にも持って行かれるのであり、この世にも残してい、おけれるのであり、現世においても、そこのところが分からして頂くところに、商売が繁盛するだろう、癒えない病気が癒えるだろう、ね。私はその親の思いが分からして頂く、その親の思いに沿うということ、ね、そこんところを、椛目では、私は焦点を。
 いよいよ置いて、そこに、信心を絞って、信心の稽古をしておるんですけれども、果たしてどうでしょうかお互いの信心が、ね。その事の中から神愛を悟ろうとしておるだろうか?と、その事の中から親の思いを分かっていきよるだろうか?と、やはり、その事、その事から、脱出す、すればもう安心、苦しいところからちょっと抜ければ、「はぁやれやれもうおかげを頂いた」だけで済まして、済ましておらんだろうか?と。
 病気が癒えたといっ、いうだけでです。ただおかげを受けたという、その病気を通して、こういうおかげを頂いたと、こういう事が分からして頂いた、というおかげを、果たして頂いていきよるだろうか?と、それが、私は、徳になるのであり、あの世に持って行けれるのであり、この世に残しておけれるのであるということを、思うんです。
 昨夜の御理解に、「信心とはいよいよ自分が分かる事だ」と、いう御理解であった。なるほど自分が分かるためには自分の周囲を見れば、もうそれは、そのまま自分の鏡だと、家内が自分の鏡であり子供が自分の鏡である、起きてくる難儀な問題は、それは自分の鏡なのだと、ね、そういう風に、もう私は今まで説いてきた、ね、教祖が教えられるところのみ教えというものは、鏡なのだと。
 その教えの鏡を前に立てて、その教えを前にして自分を眺めてみる時に、教えに、沿うていない自分である事に、気付かなければならないという風にも、説いてきた。けれどもその、それをその切実にです、それをそうと感じない、確かにそうなんだけれども、例えばなら難儀、難儀がある、本当に自分達が、こういう難儀をしなければならないような元を自分が持っておるから、改まってその難儀を助けられた訳ではないでしょうが、改まる前に、神様がもうおかげを下さっておるでしょうが。
 例えば先日、高橋さん達夫婦が、もう本当に夫婦で、夫婦がぎりぎりです、自分たちをその問題に照らしてから、自分達の分からんなもんといったような、問題が、何日も続いたんです、難儀な問題が、ね、さぁんなら自分達の夫婦の鏡なんです、言うならば、ところがその鏡を見てから、なら自分達が改まっとるかというと、改まらんなりにおかげだけは受けとるでしょうが、ね。
 そういう風にして先、おかげを先に下さるんです、だから、そういう、確かに鏡なのだけれでもです、教えは鏡なのだけれどもです、自分の周辺に現れてくることは鏡なのだけれども、汚れを落とさんなりに、言わばおかげを下さっておるというところに、何時までも汚れを落とさないといったような、結果になってです、それが教えが教えになっていかない、これでは相すまん。そこで私は、なかなか自分の事は分からん、そういう事でん本当に分かれば、改まるのだけれども、本当に分からん。 
 昨日ある方が来てから私に、「はぁここの親先生も寅年ですか」っち、(笑)言いなさるですもん、「私も寅年です」とこう言われる、ところがその人はもう皺がれた顔してからもうおじいさんじゃん、のごと見える、その人が、「はぁここの先生は私よりもだいぶん上であんなさると思いよった」っち、(笑)。言うから、私が、がっかりするんです、そんな、そんなおじいさんから。
 私は、私よりかまだ上じゃったらっち言われたら、がっかりするんです、私自身が、こうして見ると、この、このおじいさんよりも私は年取ってもないよっち、そのいうことになるでしょうが、だから自分のまだ若ぁっかごと、青年のごと思うとる、ね。言われてみてから分かるのです、一、私一回り上の、寅年かと思いよったら、やっぱり大正3年生まれのとっ、寅だということ聞いてですね。
 「なんだ私とあんた友達たい」っち、「なら友達のようにせじゃこて」っち言うてから、まあ言うたことですけれども、向こうは、その、やっぱ若こう思ちゃったって自分ば、私もまた自分ば若う思うっとったって、自分がよかつのごと思うとるということなんですよ問題は、ね、これで、これでは何時まで経っても、本当の事は分からんということ。そこで私は昨日皆さんに、聞いてもらったんですけれどもね。
 自分自身がねどのくらい、謙虚であるかということなんです、自分がどのくらい実意丁寧に謙虚に、事の前に、人の前にです、事柄の前にです、難儀なら難儀という問題の前にです、その人の前にです、謙虚であるか?ということなんです、自分なよかごと思うとらせんかと、自分のよかつのごと思うとらせんかと。とてもあの人よりもこの人よりも、いよいよ自分というものを見極めさせて頂く時にです、誰よりも、つまらん自分であることが分かる時に謙虚にならなければおられんって、ね。
 例えばここで、ここでの総代さんが総代さんがです、まぁ言や、さっ、信心がだんだん分かっていきよりなさるということが、まあ総代さんの、御用を頂いておるとするならです、信心が分かっておれば分かっておるほど、人の前に膝まづかなければおられんのです。それに総代さんだからというてから、なんか文句言うたような、格好しとってから、おかげの頂けるはずがないじゃないですか、ね。 
 夕べ私の妹が、私ちょっと、晩に、外に出ておりました御祈念前、そしたら、そのう、二人連れです、二人連れじゃないけども、行ったり来たりしよる人の中に、あの人も子供ん時に人から馬鹿んごと言われよった、この人も、現在でもまあ、言うならば、まあ人は馬鹿扱いしかしないと、けれどもちゃんとした、所へ勤めて、給料は安いけれども、まあ二人共です、一生懸命親孝行がでけておるっちいうこと。
 それを見てから私の妹が言うんですよ、「もう本当にあの人達をかるう見る段じゃなか、私達はあの人達以下だ」というような意味の事を言うんです、ね、本当にあの人達以下だという、そっ、そこにです、謙虚な態度というか、実意の信心ができるのです、ね。そこで私共がですね、そこんところを鏡にする、「はぁ自分があの人を軽う見とる」「自分があの人よりも、分かるごと思うとる。
 よかつのごと思うとる」というところにですたい、すでに、自分という者を見極めていないということ、自分の心の中にあるです、その、謙虚な態度とか、ね、謙虚なその心というものがです、有るか無いかによって、それを自分の鏡としようということなのです。私その御理解を頂いてから、はぁここんところば何時もにぎっときゃぁ、自分という者をやりそこなわない、自分が分かる、なかなかね。
 「私の事を言うて下さい」と言うても、本当なことは人は言うちゃくれんです、ね、分かりたいと願うておっても、「あんたそこばいっちょ改まるとよかばい」といったようなことはなかなか言うてくれんです、本当なことは、そこで自分の心、を、見たら一番分かる、っていうことなんです。自分の心の中に、どれほどへりくだった心があるか、どのくらい謙虚な心があるかと。
 それを見たら自分の信心の、程度が分かるというような、御理解だったんですけれどね。そういう態度を以って、神の思いを分からして頂こうとする信心、そういう謙虚な態度を以ってです、天地の道理に取り組ませて頂こうとする信心、そこからです、私は深い深い信心の喜びというものが、頂けてくるんじゃないかと、ね。その喜びがです、真に有り難いと思う心すぐにみかげのはじめであり、商売が繁盛するであろう。
 癒えない病気が癒えるだろう、そういうような、受け物。そういう状態で、現世の利益を頂きながらです、あの世にも残らしてもらやぁ、この世にも残しておけれる物を、残しておくのが、お道の信心の正当な生き方ではなかろうかという風に私は思うのです、思うんです。お道の信心がこれだと、例えばうんなら、あ、せっ、泉南教会って言うんですかねぇ、あの、今の、こっちの先生ところの、教会を。
 泉南教会のあり方が、金光教的ではないとか、あるいは金光教だとかと、言うことではない、甘木が、例えば、あ、玉水が、どうとこう言うことではない、ね、どれもこれもひっくるめてですたい、そして、私が唱えるところのですたい、みんなひっくるめてです、私は、おかげを受けていくという信心、ね。しかもその信心のおかげの現れどころがです。只今申しましたような、いよいよ自分を見極めさして頂いた。
 謙虚な、実意丁寧な信心からです、天地の大恩を本気で分からしてもろうて、その親の心に添い奉りたい、神様の思いに添い、添わして頂きたいという、あり方にならしてもらう時にね、本当の、(息を吸う音)教祖が、受けられたおかげ、ね、「どうぞ信心しておかげを受けてくれよ」と仰る信心とは、そういう信心ではなかろうかという風に、私は思うですね。
   おかげを頂かれますよう。